画風

画風:九州の気骨

初めに,石本の代表作である"画家の家族"(194x130, 1951)[佐美],"対話"(113x131, 1960)[佐美],および"花咲く溶岩帯"(162x130, 1978)
[長美]を示します.日展においてそれぞれ,特選と朝倉賞菊華賞,および会員賞を受賞しました.特に菊華賞と会員賞は,それぞれの賞が設置された第1回目の受賞者ということで,先駆性を追い求めた創作活動が先人(forerunner)としての評価につながったとも解釈できます

画家の家族 対話 花咲く溶岩帯


石本の画風については、すでに"プロフィール"のページでも佐賀県立美術館学芸員(当時)・松本誠一氏による創作活動の概観があります。石本の思想に沿った、地元・九州からとらえた概観とも言えます。美術界と限らず多くの分野で,東京と比して地方のハンディキャップが話題になります.それを克服しての彼の活動を,美術評論家・田近憲三氏が適切に評価しておられます.これは、言わば中央からとらえた石本評と言えます。少し長くなりますが,田近氏の評論[田近、昭49]の一部を引用します:

港の丘昭和46年の日展は,名誉ある歴史も年を経ていつしか体勢を固定さすままに,大英断な改革をおこなって,第3回展にあたりますが,その年,おびただしい清新を期した制作の間で,ひときわ溌剌と目立ったのは,(石本の)「港の丘」でした. - - - - - - 洋画は,もともと現実を,たじろかずに描き進むときに,つよい威力をあらわしますが, - - - - - - 洋画の写実が苦しむのは,その表現が平板な写真的な性格になることです.そしてその傾向を最もくるしんだのは,過去の日展の穏和な描写かもしれません.
そのとき「港の丘」は大胆不敵です.それは海港を俯瞰して,つづく都市をことごとく描きつくし,輻輳するビルディングをおさめ,展望はさらに山裾にのび,遠山へとつずきます.しかも画面に生まれたのは,展望をもろに把握して,一気にせまる生動でした.そのとき紺青の海は波を動かし,船は行きかい,汽笛をとどろかせ,都市は生活の活気をみせ,林立の建物は奇妙にせりあって,しかも海の青色はもっとも快活に,建築の白色は相変化して,色彩からしても颯爽とした,明確を生んだのもその作品でした.


このように"港の丘"(145x113, 1971))[十銀]を評論した上で, 次のような背景事情に言及しました:

九州は遠方にある関係から,東京の近隣にみるような単調な同化をうけることもなく,独自な体勢をほこると聞きますが,石本秀雄氏の制作もまた,九州の気骨をいかんなく表すものでしょう.- - - - しかし人には運があって,進んで九州を活躍の地とえらび中央に出られなかったことは,画壇にはなばなしく進出をするという点では,支障を生んだことでしょう.画壇の繁頻にとらわれることもなく,独立不霸,その制作に一貫して,表現の剛健を確立されたのかもしれません.

この後も同氏の論評は続き,時代は前後しますが,昭和36年の"臥竜松"(112x145, 1961)について次のように述べておられます:

臥龍松そのとき,画壇を動かし,在野の表現を席巻した抽象の流行に顧慮もなく,また新奇な様式から,現代的な面白さを工夫することに興味もなく,作家の作品は質実に進みます.しかもまわりには,その内からの重さや強さを考える作家が全く少ない時だけに,作家は孤立を覚悟して進まれたに相違ありません.
しかし,その重い力をもちながら,同時に画面が生動することを期して,36年の「臥竜松」は,目覚しい精悍作でした.
そのときは,一種の感動が作家をふるい立たせたのではないでしょうか.画面の右には根も高く,斜めに幹がそびえます.そして左から,これも斜めに幹がのびますが,それを中断する中央の枝の強烈には,誰人も目を見張ることでしょう.しかし,その強烈こそ一つの焦点であって,この作品はこまごました描写をことごとく棄て,葉は魂をなして重く,制作は重い力から打つような気力をみせました.


以上,石本作品に対し画壇における時代や環境を背景にした論評でした。

謝 辞

文中[ ]を付した作品は,次の方々の所蔵品です。画像掲載へのご協力に謝意を表します.

[佐美]  佐賀県立博物館・美術館
[十銀]  十八銀行
[長美]  長崎県立美術館


文 献

[田近、昭49] 田近憲三:石本秀雄の芸術について、実行委員会(編):石本秀雄展画集、昭和49年


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